片岡が、1871(明治4)年4月から約2年間官費により欧米視察を行い、1873(明治6)年3月帰国後帰県を申し出た事についての許可書。高知県権大属中尾真晃より吏官伝達所に対して伺が出され許可されている。
高知で発行された最初の新聞。発行所は「共行社」。1873(明治6)年(日付なし)試験無号。同年7月30日に第1号が発行されている。現存する最終号は1875年12月27日発行の62号。廃刊時期は不明。月三回程度発行されていた。
1874(明治7)年5月高知で立志社を設立した板垣らは全国的規模の政社結成を目指し上阪。翌年2月大阪で愛国社を結成し、会期中の2月22日「愛国社合議書」が発表された。しかし、さしたる活動もないまま数年後に消滅した。
1874(明治7)年立志社の創立当初から子弟の教育のため立志学舎を設立し、1876(明治9)年からは欧米の近代思想を基調とした教育を行った。この「試問條目」は現代でいう世界の地理歴史に関する問題集である。
1877(明治10)年、自由民権運動の方針を確立した立志社が民権思想の普及のために発行した機関紙。同年8月『海南新誌』『土陽雑誌』を発行。翌年1月両誌が統合されて『土陽新聞』となった。
高知市内の民権結社が互いの交流と親睦を図るため、南嶽社が同志の発陽・修立・南洋・有信・共行各社に回文して1877(明治10)年11月に定めたもの。
1877(明治10)年6月西南戦争の最中、立志社は政府に建白書を提出、言論による政治改革の方針を鮮明にした。しかし、一部には薩軍に呼応する動きがあり、片岡はこの関係者に金銭的援助を与えた廉により投獄された。
自由民権運動の全国的指導組織であった愛国社の機関紙として1880(明治13)年3月13日に『愛国志林』の第一編を発行。その後『愛国新誌』と改題され、翌年6月17日の第36号で終刊となった。
1880(明治13)年結成された「国会期成同盟」によって組織的に取り組まれ政府に提出された願望書。本文のあとに2府22県の請願人の代表97名の連署が続く。1880(明治13)年4月17日付。
1880(明治13)年11月、国会期成同盟第2回大会で決定されたもの。国会期成同盟は同年3月愛国社第4会開催中にこれとは別組織として結成された。この合議書には、国民の手による「国会実現まで同盟を解散しない」など8ケ条が記されている。
海南協同会は県内産業・経済の発展を期し、1880(明治13)年11月に結成された組織である。これを契機として豪農商層へも民権運動への参加を呼びかけた。
自由民権運動に参加した人々は、憲法制定を政府に要求するだけでなく、自らも憲法を積極的に構想した。1880(明治13)年国会期成同盟の大会で、次回の大会には各組織が憲法草案を持参することが決議されたことにより、全国各地で起草され、全国で50種を超える民権期の憲法草案が確認されている。
今日、内容が伝わっている土佐の憲法草案は、植木枝盛の「東洋大日本国々憲案」とその草稿の「日本憲法」、そして自由民権運動の代表的結社である立志社の「日本憲法見込案」であり、人民主権・一院制議会・周到な人権保障など民主主義の理念に貫かれ、現在の日本国憲法の制定過程に影響を与えている。
今日、内容が伝わっている土佐の憲法草案は、植木枝盛の「東洋大日本国々憲案」とその草稿の「日本憲法」、そして自由民権運動の代表的結社である立志社の「日本憲法見込案」であり、人民主権・一院制議会・周到な人権保障など民主主義の理念に貫かれ、現在の日本国憲法の制定過程に影響を与えている。
1881(明治14)年10月自由党が結成された。その地方支部として翌年5月高知に海南自由党が結成され、席上活動の基本となる海南自由党規約および同規則が議決された。
1878(明治11)年と1880(明治13)年の2度にわたり、酒の醸造に賦課される造石税が引き上げられたのに対し、その対策を依頼された植木枝盛が起草。数千部を印刷し、全国の酒造業者に大阪での会議を呼びかけた。
福島県三春の戸長松本茂より、同地正道館の講師に招請された弘瀬重正と西原清東に宛てた1882(明治15)年2月4日付の礼状。土佐と三春の民権家の交流を伝えた資料。
1882(明治15)年4月6日、岐阜県厚見郡富茂登村(現岐阜市)にある神道中教院で演説を終えた板垣を襲った刺客が手にしていた短刀。
錦絵。1882(明治15)年発行。板垣が東海地方遊説中、1883年4月6日岐阜県厚見郡富茂登村(現岐阜市)にある神道中教院に於て暴漢に襲われ負傷。この事件は大変衝撃的なニュースとして全国に伝わった。有名な「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、この時発せられた。
植木枝盛が起草した減租請願運動の標準書(活版刷)。松方デフレといわれる深刻な不況下にあった1883(明治16)年11月、片岡健吉は「減租請願運動」を計画。東京で自由党員に運動を提起し、植木起草のこの建白書案を示した。
民権運動家であり、文筆活動も行っていた坂崎紫瀾が坂本龍馬の生涯を実伝的小説として描いたもの。1883(明治16)年1月から9月にかけて『土陽新聞』に連載され、同年7月から10月にかけて雑賀柳香補綴により三篇に分けて出版された。
1884(明治17)年10月29日の自由党解党の一カ月前に、高知にあった自由党の地方支部海南自由党が行った、自由党解党問題の審議のための招集状。
後藤房著。1885(明治18)年刊行。明治に入ると自由民権運動などから男女同権が主張されるようになる。これに対して、この本では同権論の主張するところを一つ一つ取り上げこれに対する反論を述べている。また、末尾には同権論者の反論は受けて立つということが付記されている。
1887(明治20)年5月刊。中江兆民が近代日本の在り方を三人の論客、南海先生・洋学紳士君・豪傑君に語らせるという形で著述した政治哲学書。
江戸時代に欧米列強と締結した不平等条約の改正案について、フランスの法学者ボアソナードが提出した「裁判権ノ条約草案ニ関スル意見」と題された反対意見書。
1887(明治20)年、「租税の軽減」「外交失策の挽回」「言論集会の自由」の三つの要求を掲げ全国的規模で取り組まれた建白運動に際し県庁に建白書と共に提出された送達願。民権家達は建白書を提出後上京し、政府に対し陳情請願活動を繰り広げた。
1887(明治20)年、「租税の軽減」「外交失策の挽回」「言論集会の自由」の三つの要求を掲げた三大事件建白運動が展開され、多数の活動家が上京し政府に対して陳情請願活動が繰り広げられる事態となった。12月、政府はこれらの活動家達を東京から締め出すため「保安条例」を発し退去を命じた。
中江篤介(兆民)著。1890(明治23)年4月、東京金港堂発行。7月の第1回衆議院議員選挙を控え、世界の注目を集めている今回の国会開設に際し選挙人はどのように議員を選ぶべきかを説いている。
1891(明治24)年12月15日衆議院解散後、植木枝盛から山田平左衛門・弘瀬重正宛に出された書状で、解散前後から総選挙までの政界の内幕が赤裸々に記されている。
錦絵。1892(明治25)年発行。同年2月に行われた第2回衆議院議員選挙は、民党候補者の当選を阻止するため、内務大臣の指示のもと、全国的に大規模な干渉が行われた。とりわけ高知における干渉は激しく、中でも2月19日早朝の高岡郡斗賀野村(現佐川町)における民吏両党の衝突は最も激しいものとなった。
第2回衆議院議員選挙の際に行われた選挙大干渉に対し、不正選挙の訴訟を起こすために、民権派代言人が中心となって県内各地から寄せられた干渉についての情報を整理し、証拠書類としてまとめたもの。
1892(明治25)年4月6日付、宮崎嘉道宛。宮崎は幡多郡国民派の中心人物。谷はこの中で2月に行われた第2回衆議院議員選挙における政府の選挙大干渉により、民権派・国民派の間に選挙後もこの対立の余韻が残り日常の生活にも困難を来すような状況が生まれている。旧怨を捨て国民派の優勢な幡多郡下の自由派の人々の保護をしてほしいと訴えている。
「めんこ」は江戸時代から続く子供の遊びで自分のめんこを相手のめんこに重ねる。あるいは打ち当てて弾き出すなどいろいろな遊び方がある。この「泥めんこ」は明治時代のものと思われ、「自由」や「板垣」などの文字が見られる。